歴史作家桐野作人氏の「記念講演会」&「懇話会」
平成28年3月12日 出水市文化会館
「記念講演会」 文化会館
演題「歴史のなかの出水 ~戦国時代を中心に~ 」
豊臣秀吉 天正15年 出水城(亀ケ城)に入る
坂本龍馬 慶応元年 野田、米ノ津へ
薩州島津家、出水城(亀ケ城)がすごい
島津義弘の出水入部ならず山田昌巌(有栄)と中馬大蔵の逸話
「懇話会」 記念講演会の後、一階学習室にて約50名出席した
会の主な内容
質問事項
薩州島津家七代忠辰は、義弘公や秀吉公の命に従わなかった科で、改易切腹となった。
これに対し家康時代になり、島津忠恒(家久)に無礼を働いた家老伊集院忠棟は手討ちに
なったが、嫡男忠真は藩主忠恒に反旗を翻す庄内の乱を起こした。義弘公も和睦の働きを
するほど苦労した。この違いはどうしてですか。
答
家康時代に入っても、我が父が手討ちになったら、嫡男がかたぎを撃つことは不自然では
ない。なぜ、伊集院家がそれができたかというと、御朱印衆であったことです。
御朱印衆は秀吉から直接拝領を許されるという秀吉家臣という立場にもなります。
伊集院家のこのような自負心があり、反旗を翻えしたのです。
しかし、慶長7年(1602年)その忠真も家久に討たれてしまいます。